「死にゆくもの」

名前こそつけていないが、古株のスガイの1匹がここ1週間ほど具合が悪い。どうも寿命を迎えているような気がする。もう1匹のスガイは何ともなく元気にしているから、水槽の状況が悪いせいだとは感じない。温度の調節もTEGARUのおかげで随分楽になったし、エアコンも上手に使いこなせるようになってきたから、環境はそう悪いものではないはずだ。



朝いたところからずっと動いていないので、そのスガイを持ち上げてみたところ、お腹を出したままびくともしない。ちょっと触っても、全く反応がない。長老もそのようにして死んでいったので、もう駄目か・・・と思って、悲しい気持ちでじっと見つめた。

すると、お腹は出した状態だから、まだ貝殻の奥に目が入っていなかった。その目と目が合った。かわいらしいけれど、もう生気の失せた目がじっとこちらを覗いていた。死にゆく貝の目を見られることは滅多にない。

「もう頑張れない? もう無理?」と、その目に話しかけながら、それでも何とか元気になって欲しいと祈るように見つめていると・・・かすかにお腹の一箇所で息をしていることが確認できた。文字通り「虫の息」だったが、それでもスガイは生きようとしていた。

習性なのか、死にゆく貝はみんな最後は自分を守るように貝殻を閉じ、その目も口も奥にしまってしまう。最後の力を振り絞って、そのスガイもまた次第に身を奥へとしまっていった。現在、フタが半開きの状態ではあるが、ほぼ身をしまった状態になっている。わずかな望みを託して、岩につかまりやすいところに置いて様子を見ている状態だ。

私は昨日までまるまる2日ほどかけて、ある方のブログの全ての記事を読んでいた。それはもう書き手のいない、とある末期がんの方の闘病ブログだった。「死にゆくもの」の姿を見守ることは、その対象が人間であれ貝であれ、その他のどのような生きものであれ、何か独特の感情を湧き起こさせる。

どんなに亡くなってしまう確率のほうが高くても、見守る側も「ああもう無理なんだな・・・」と覚悟を決めざるを得なくても、それでもその人なり生きものなりは、最後まで生きようとする。スガイもフタを閉めてはいるが、まだすぐには絶命しないだろう。少なくともすぐ先ほどまで、お腹を出して身動きができなくても、腹の一箇所で息をしていた。

息を引き取るその瞬間まで、きちんと生き抜くその生きものの本能そのものの姿は、まだ自分自身は「死から遠いところにいる(と信じている)」見守る側に対しては辛くもあるが、同時に生命の奥深さ、神秘性もしっかりと伝えてくる。もう弱っているはずなのに、それは一種の「迫力」のようなものを携えてこちらへと向かってくる。

その時、見守る側にはきっと何かが問われている。何が問われているのかも、何と答えていいのかも分からない。いや、分かるのだけれど、言葉にならない。いや、分かるつもりでいても実際には何も分かっていなくて、言葉にならないのかもしれない。兎にも角にもこの息詰まった感覚、これをどう表現したらいいのか。

今は元気いっぱいのマツだって、きっといつかこうして死んでいく。具合の悪いスガイには頑張ってもらいたいが、だからといってこのスガイが元気になっても、それで万事がOKなわけではないのだ。その生死の境で突きつけられた課題、それはずっと永遠に残っていく。

何が問われ、それに私は何と答えればいいのか。たとえ私がまだ「死から遠いところにいる(と信じている)」としても、そこにある他者の「死」と向き合わずに生きていくことはできない。いや、むしろそうしなければいけない。この重い課題を突きつけられることから逃れては、決して自分自身すら「生きて」いくことはできないと感じる。

<現在の水槽状況>
#1:(空き)
#2:タマキビ5匹、イシダタミ3匹、アラレタマキビ1匹、スガイ2匹(うち1匹は経過観察中)
#3:イシダタミ1匹(経過観察中だったが死亡確定)

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