「共時性」
私が心に余裕をなくすと、なぜかそれと同時に貝たちにも何らかのトラブルが起きることが多い。それを「偶然」で片づけるのは簡単だが、私はこれは一種の「共時性」ではないのか?と感じることがある。「共時性」とはユングによって提唱された概念・・・のはずであるが、学校から離れてだいぶ経つのと、もともとがあまりにも不勉強なために、この程度のことも断言できないのがもどかしい。そこはそれ、「草稿ブログ」だから、こうした自分の未熟な面もそのまま文章にできるのが唯一の救いである。
いずれにしても、私が「共時性」という言葉を使って表現したいのは、生きとし生けるもの、みなどこかでつながっていて無関係ではないということだ。それはもちろん「生態系」という科学的なレベルでもそうなのだが、「心」とか「意識」あるいは「精神性」といったようなレベルにおいてもそうなのではないか?ということである。マツたちと暮らしていくうちに、最初は「偶然だろう」と思っていた彼らの行動が実はそうではないらしい、ということを次々と実感する場面に遭遇した。生きとし生けるものがみなつながっているのなら、マツたちとは一緒に暮らしているのだから、なおさら一層つながっていても何ら不思議はない、今は普通にそう思う。
昨日記事にしたシロちゃんだが、どうやら復活はかなわなかったと思われる。まだ死んでしまったとは断言できない状態なので水槽に入れてあるが、元気な頃のシロちゃんの活発さ加減を知っている私にとっては、今のシロちゃんはただの貝殻にしか見えない。だから、たぶんもう「魂」はそこにないのではないか、と薄々感じている。シロちゃんはアラレタマキビだからとても小さな体をしているが、うちに来た当初からとても「やんちゃ」で「タフ」だった。私はいつもそんなシロちゃんの姿に元気づけられていた。私がまだ水槽のコントロールが上手にできずに、しばしば水質をまずい状態にしてしまっていたときも、シロちゃんだけはいつも元気に動き回っていた。
だから、シロちゃんに限ってこんな早くに死んでしまうなんて私は想像だにしなかった。実際、昨日も昼間は元気にマツたちの背中にくっついて、あちこち運んでもらっていたし、私はシロちゃんのその「ちゃっかり」したところが、とても微笑ましくて好きだった。たぶん昨晩仕事でテレビ電話をしていたときに聞こえた「カツーン」という音が、シロちゃんがうっかり水槽の底に落ちてしまった瞬間だったのだろう。あのとき私がすぐに助けてやればこんなことにならなかったのに・・・やり切れない思いである。
いつもの私ならすぐ助けられた。だが、ここのところ身辺でいろいろなトラブルが続いていて、心身ともにまったく余裕がない。その犠牲になったのがシロちゃんだなんて、本当に私は自分という存在の罪深さのようなものを突きつけられた気がする。あのときトラブル処理にあんなにのめり込まなければ、あのときもう少し余裕を持った心持ちでいれば・・・そんな後悔ばかりが次々と湧き起こってくる。シロちゃんが私の身代わりになってくれた、なんて都合のいい考え方は私にはとてもできない。小さなシロちゃんの貝殻を見つめながら、私はただただ呆然としている。
いずれにしても、私が「共時性」という言葉を使って表現したいのは、生きとし生けるもの、みなどこかでつながっていて無関係ではないということだ。それはもちろん「生態系」という科学的なレベルでもそうなのだが、「心」とか「意識」あるいは「精神性」といったようなレベルにおいてもそうなのではないか?ということである。マツたちと暮らしていくうちに、最初は「偶然だろう」と思っていた彼らの行動が実はそうではないらしい、ということを次々と実感する場面に遭遇した。生きとし生けるものがみなつながっているのなら、マツたちとは一緒に暮らしているのだから、なおさら一層つながっていても何ら不思議はない、今は普通にそう思う。
昨日記事にしたシロちゃんだが、どうやら復活はかなわなかったと思われる。まだ死んでしまったとは断言できない状態なので水槽に入れてあるが、元気な頃のシロちゃんの活発さ加減を知っている私にとっては、今のシロちゃんはただの貝殻にしか見えない。だから、たぶんもう「魂」はそこにないのではないか、と薄々感じている。シロちゃんはアラレタマキビだからとても小さな体をしているが、うちに来た当初からとても「やんちゃ」で「タフ」だった。私はいつもそんなシロちゃんの姿に元気づけられていた。私がまだ水槽のコントロールが上手にできずに、しばしば水質をまずい状態にしてしまっていたときも、シロちゃんだけはいつも元気に動き回っていた。
だから、シロちゃんに限ってこんな早くに死んでしまうなんて私は想像だにしなかった。実際、昨日も昼間は元気にマツたちの背中にくっついて、あちこち運んでもらっていたし、私はシロちゃんのその「ちゃっかり」したところが、とても微笑ましくて好きだった。たぶん昨晩仕事でテレビ電話をしていたときに聞こえた「カツーン」という音が、シロちゃんがうっかり水槽の底に落ちてしまった瞬間だったのだろう。あのとき私がすぐに助けてやればこんなことにならなかったのに・・・やり切れない思いである。
いつもの私ならすぐ助けられた。だが、ここのところ身辺でいろいろなトラブルが続いていて、心身ともにまったく余裕がない。その犠牲になったのがシロちゃんだなんて、本当に私は自分という存在の罪深さのようなものを突きつけられた気がする。あのときトラブル処理にあんなにのめり込まなければ、あのときもう少し余裕を持った心持ちでいれば・・・そんな後悔ばかりが次々と湧き起こってくる。シロちゃんが私の身代わりになってくれた、なんて都合のいい考え方は私にはとてもできない。小さなシロちゃんの貝殻を見つめながら、私はただただ呆然としている。