この巻貝は「食べる用」か「飼う用」か?――「ベジタリアン」な気持ち(?)
私は北米にいた時期があるので、「ベジタリアン」を名乗る人たちとかなり多く接触してきた。しかし私がその当時、ベジタリアンの方々のことを理解できていたかというと、決してそうではないと思う。いや、マツたちを飼い始めるまではまったく理解できなかったと言ってもいい。むしろ偏見すら抱いていたのだ。だが、今は何となくではあるが、その気持ちが想像できるようになってしまったと感じるようになった。早い話が「貝類」を口にしづらくなってきたのである。
私はかつて、マツの仲間たちを山ほど食べていた。奥能登に移住してから、一時期仕事がなくて食べるものにも本当に困った時期があって、そのときの唯一の贅沢が「シタダミ」をたくさん取ってきて、家で茹でて食べることだったからだ。「シタダミ」は貝の種類によってそれぞれ味は少しずつ違うものの、概してサザエのミニチュアみたいなものなので、味はかなりよい。
小さいため、針のようなものでつついて身をほじくり出さなければならない手間がかかるから、基本的には商品としてはほとんど流通していない。最近はネット販売もたまに見かけるが、まだまだマイナーである。したがって、量をわきまえて採取する限りは密漁にはならない。とは言え、地元に知り合いがいないとうるさく言われる可能性があるので、その点には注意が必要である。念のため。
マツを飼い始めてからも、当時岐阜に住んでいた私は奥能登に用事があって出かける度に必ずシタダミを取ってきて、「これは食べる用」などと言って食べていた。水槽の中のマツたちを見ながら、目の前で「食べる用」の茹でたてのシタダミをほじくっていたのだ。「食べる用」のはずだったシタダミたちの中から元気のいいのを見つけると、マツたちの水槽に放り込んで「飼う用」に変更したりしていた。今、これを書いていても、よくそんなことができたものだとゾッとしてしまう。
当時既に自分でも何か不全感のようなものを持ちつつ、「食べる用」「飼う用」なんてことをやっていたのだが、ある日を境にまったく食べられなくなってしまった。「食べる用」のつもりで取ってきたシタダミたちが、鍋の中で元気に動き回る姿を見ているうち、「彼らとマツたちといったい何が違うのだろう?」と考えてしまい、食べるに食べられなくなって、すべてを「飼う用」にしてしまったのである。その頃には、他のシタダミたちよりも一層個性の強かったマツにはもうその名前がついていたし、ある程度コミュニケーションが取れることにも気づき始めていた。
マツの場合はもともと、完全に「食べる用」として連れて来られたのだから、その運命の大きな転換に思いを馳せると「他の生きものの命をいただいて生きていくこと」や「命の選別をすること」について、大変複雑な気分に陥らざるを得ない。最近は、インスタントのシジミやらアサリやらの味噌汁でさえ、マツの目の前では飲むのをはばかられるほどになってしまった。生きているときの貝の一生懸命な姿が脳裏をよぎり、「この貝もきっとマツみたいにかわいかったんだろうなあ」などと考え出してしまうから厄介である。
肉好きの私がベジタリアンになることはおそらく生涯ない、と思うが、貝類を完全に食べなくなることは十分にあり得ると思う。
私はかつて、マツの仲間たちを山ほど食べていた。奥能登に移住してから、一時期仕事がなくて食べるものにも本当に困った時期があって、そのときの唯一の贅沢が「シタダミ」をたくさん取ってきて、家で茹でて食べることだったからだ。「シタダミ」は貝の種類によってそれぞれ味は少しずつ違うものの、概してサザエのミニチュアみたいなものなので、味はかなりよい。
小さいため、針のようなものでつついて身をほじくり出さなければならない手間がかかるから、基本的には商品としてはほとんど流通していない。最近はネット販売もたまに見かけるが、まだまだマイナーである。したがって、量をわきまえて採取する限りは密漁にはならない。とは言え、地元に知り合いがいないとうるさく言われる可能性があるので、その点には注意が必要である。念のため。
マツを飼い始めてからも、当時岐阜に住んでいた私は奥能登に用事があって出かける度に必ずシタダミを取ってきて、「これは食べる用」などと言って食べていた。水槽の中のマツたちを見ながら、目の前で「食べる用」の茹でたてのシタダミをほじくっていたのだ。「食べる用」のはずだったシタダミたちの中から元気のいいのを見つけると、マツたちの水槽に放り込んで「飼う用」に変更したりしていた。今、これを書いていても、よくそんなことができたものだとゾッとしてしまう。
当時既に自分でも何か不全感のようなものを持ちつつ、「食べる用」「飼う用」なんてことをやっていたのだが、ある日を境にまったく食べられなくなってしまった。「食べる用」のつもりで取ってきたシタダミたちが、鍋の中で元気に動き回る姿を見ているうち、「彼らとマツたちといったい何が違うのだろう?」と考えてしまい、食べるに食べられなくなって、すべてを「飼う用」にしてしまったのである。その頃には、他のシタダミたちよりも一層個性の強かったマツにはもうその名前がついていたし、ある程度コミュニケーションが取れることにも気づき始めていた。
マツの場合はもともと、完全に「食べる用」として連れて来られたのだから、その運命の大きな転換に思いを馳せると「他の生きものの命をいただいて生きていくこと」や「命の選別をすること」について、大変複雑な気分に陥らざるを得ない。最近は、インスタントのシジミやらアサリやらの味噌汁でさえ、マツの目の前では飲むのをはばかられるほどになってしまった。生きているときの貝の一生懸命な姿が脳裏をよぎり、「この貝もきっとマツみたいにかわいかったんだろうなあ」などと考え出してしまうから厄介である。
肉好きの私がベジタリアンになることはおそらく生涯ない、と思うが、貝類を完全に食べなくなることは十分にあり得ると思う。